BJP Sailing
   
  TEAM B J P   
 
  クルージング、レーシング、メンテナンス、ポンツーンライフの経験談。
 
  初めてのヨットレース。           
 

1984年
中古のYAMAHA25MK2を共同オーナー5名で購入。

とある日、マリーナのスタッフさんから「今日はレースに参加?」と声を掛けられ「レース?」

当時の私は、自らFL500 での鈴鹿を走った経験などで、仕事としてMOTOR SPORTSに関わっていたので、レースには興味ありありで急遽エントリー。

今では無くなりましたが「オリンピックコース」と呼ばれる「上・サイド・下・上・下」の三角のコースで、ルールも全く無知な状態。

スタートもどちらに向かうのかも理解せずで、本部艇に問いただしたものでした。

まずは当然最後尾でスタート。

「上・サイド」あたりで30feetのレース艇にワンラップされる始末。

あまりにも遅いためにリタイヤを宣告。

これがセイリングの始まりでした。

その後、KAZI社が発行している「HELM」を読みながらスピンアップなどを練習し、ブローチングなども多く経験したものでした。

しかしこの25MK2はウエザーヘルムが強く、サービスマンのアドバイスでマストレーキを変えてみてもあまり変わらなかったのですが、
とにかく、フォーミュラカーのセッティングのようで面白い乗り物と感じていました。


 
 
  1984年のHELM 誌とBSCAの沖ノ島回航レースと沖の白石。
 
  当時のモータースポーツとの関わり。
 
 
CABIN RACING 松本恵二選手   SPEED STAR RACING
長谷見昌弘選手
 
 
WEST 779 道上佐堵史選手   長谷見選手とスズカパドックにて
 
 
CABIN RACING イベント開催
神戸コンベンションセンター
  MULTI RACING FL500 
スズカ西コース
 
  2艇めの購入             
 

YAMAHA25MK2を購入してからの2年の間(1984年〜1986年)、琵琶湖渇水がひどく1年近くも下架出来ず。

それでもレース熱が高まり、同じ仲間で2艇めに新艇の購入を決め、YAMAHA肥後橋店から1987年にYAMAHA26SCを購入。

このSCは、通常の「S」タイプ(ランニングバックステイ)があるものとランニングバックステイのない「C」タイプが販売されていました。

そのラインナップの中に、「S」仕様の船外機に「C」のマストを搭載した「SC」を購入したのです。


これもウエザーヘルムが強く、ちょくちょくブローチング、ワイルドタックをしていました。


 
 
YAMAHA CUPのレース中。   BSCAのレース中。
 
   
YAMAHA CUP 松下選手と    
   
 
  YAMAHA 26 SC               
 


「YAMAHA26SC」 で数多くのレースに参加させてもらいました。

YAMAHA主催のYAMAHA CUPや琵琶湖セーリングクルーザー協会(BSCA)に参戦。

その時はまだ「NORC(日本外洋帆走協会)今の「JSAF」がある事も、本当の意味のレーティングの事なども知りませんでした。


購入後、まだダクロンセイルの時代でしたが、数社のセイルメーカーから「ケブラーセイル」や「マイラーセイル」が販売されており、当然のようにNOTH SAILSからメインとゼノアのセットでケブラーとマイラーを装備したものでした。

ケブラーにするとダクロンセイルよりも簡単に速く帆走すると思っていたのは大間違い。

その間、ドイルセイルなども試してみましたが、上位に食い込むことは全く不可能でした。

レースをはじめて7年間入賞経験ナシ。

 
  YAMAHA CUPのレース中の自艇。トップを帆走している様ですが・・・
 
  人との出会い               
 


YAMAHA 25MK2と26SCの2年半と7年半の間
にいろんなセーラーと知り合うことが出来ました。

YAMAHA25MK2と26SC時代では、当時一点鐘で現在のDOG WHACHの永信修治さんには、ヨットの「ABC」から教えて頂き、J24「HANGOVER」にも乗せて頂きました。


26SC時代には、シーホッパー全日本チャンプの松下選手、ニッチャレの兵頭選手、同志社OBの椹木さん、葛川さん。
ミニトンに乗っていた村島さんなどと知り合い、セイリングのノウハウを学ぶことが
出来たのは今でも大きな財産になっています 。

一番最初の出会いは、同じマリーナで活動をしている「学連ヨット部のウーマンセイラー」
YAMAHA25MK2に乗ってもらう機会があり、ヨットの走らせ方を学ばせてもらいました。

「このメインシートブロックをHARKENに変えるとイイですよって」
そこから「HARKEN」の虜になってしまっています。



 
 
  当時のベークライト製ブロックと琵琶湖。
 
  YAMAHA R30II            
 


結局、合計して10年間は7位以上の
入賞経験ナシのまま、YAMAHA26SCを諦め、本格的なレースボートを購入を視野に入れ始めたのです。

最初はキャビンもあってセイリングでもそこそこ速いのがイイのかな?があり「SWING 30」を考えていたのですが、中途半端よりも本格的なレースボート(ヨット)に方向変換してしまいました。


この時点で、ヨットライフの方向が大きく別れてしまったのです。

そして、YAMAHA30R2を個人でスペシャルオーダーで購入。

キャビ内はFRPとパイプバースのみ。

キャビン内は薄いピンク。
グレーハルに自らデザインした曲線ラインを加え、デッキはホワイトをオーダー。

エンジンは軽い方がイイと思ってYANMAR 1GMに。
しかし、強風の真向かいではパワー不足。

セイルはNOTHのフルセットにデッキ上のギアは当然オール HARKEN。


デビューレースは1990年に開催された「ORANGE CUP」

参加クラスはIOR。

当時は「ツートン(40feetオーバー)「ワントン(40feet)」「スリークォータートン(35feet)」「ハーフトン(30feet)」「クォータートン(25feet)」「ミニトン(23feet)などと呼ばれ、ヨットレースが盛んだったような気がします。

このオレンジカップではハーフトンながら総合3位になることが出来、さらにレース熱が高まったのです。

この時点では決まったクルーはいなく、YAMAHAとNOTH SAILSが集めてくれた寄せ集めのクルーで構成されての参加でした。

オレンジカップが終わり、次にエントリーしたのが「マリンカーニバルinニシノミヤ」YAMAHAが主催するお祭りレースでしたが、ここでも優勝させてもらいました。


 
  1990年、第16回オレンジカップ。総合3位。スタートでChaCha(Farr40)と。
 
  1990年、第16回オレンジカップ。OFFSHORE誌より。
 
  1990年 西宮マリンカーニバル参加。西宮マリーナにて。
 
  再び琵琶湖へ。           
   
 

その「YR30II」を琵琶湖にトラック輸送で持ち帰ったのですが、今度はクルー集めに悩まされていたのです。

元々知り合いだったNOTH SAILSの中川さんがKGの学連ヨット部のセイラーを数人引き連れて来てくれました。

YR時代にも多くのセイラーとの出会いがあり、ニッチャレの西川松吉選手なども参加してくれ、その後KENWOOD CUPにもキャプテンとして乗ってくれたのです。

彼はYRでは若手クルーのコーチ役も兼ねてくれ、タック100回、ジャイブ100回は大袈裟ですが、毎週の土日にトレーニングを重ねてくれていました。

「TEAM BJP」のルーツ「TEAM SERVE」が誕生したのです。

そのクルーたちとは35年のお付き合い。今でも一緒にセイリングを楽しませて貰っています。


「YR」には1994年まで乗り続け、琵琶湖ではYAMAHA CUPやNORCのレースに参加、マリーナ主催のマリーナ保管だけのレース親睦会などは楽しい思い出です。

当時YAMAHA CUPとBSCAはトレーニングやチューニングと決め、NORCレースを主に参戦。

しかし同クラスのYRIIやTAKAIなど強敵が多く、なかなか勝たせてはくれませんでした。

そのレースのひとつ、BSCA主催のオーバーナイトレース、琵琶湖大橋南からスタートし北湖の竹生島を回って再び琵琶湖大橋に戻るレースでした。

スタートからそこそこの風があり、ワンポイントリーフにNo3。

竹生島回航前に風が落ちフルメインに、しかし島の北に回ると突風が襲いコントロール不能に、島に向かってブローチングで突き進んみ、メイン、ジブをリリースしてもブローチングが収まらず、最後にバングをリリースすると少しコントロールが可能になり島を抜け出すことに成功。

この時の風速計は75ノットを示していたと、ひとりの冷静なクルーが見ていたそうです。

 
 
OGOTO CUPの風景。   OGOTO CUPのアフターパーティ。
 
   
西川選手のコーチング中。    
 
 
   
 
  1992年、YRで琵琶湖を楽しむ。この頃ブームをPROCOに変更。
 
 
サポートボート(Star Ace)   トランサムにはレースステッカー
 
  YR30IIでのレース転戦。
 


当時NORCでは1990 年は2位、1991年、1992年とシリーズチャンピオン、1993年はあまり参戦しなかったのもあって、シリーズ3位。

また、大阪湾、相模湾への遠征なども経験させてもらいました。

1991年にはホストマリーナの北港ヨットハーバー(現北港マリーナ)主催。

西宮沖で開催されたCORUM CUP IOR クラス3位。

この時はワントンとハーフトンが主流で、オープンクラスも設けられ、その時の参加賞?は全出場艇から抽選で「CORUM」の時計(50万円相当)が貰えると話題になったものでした。

私はレース参加をしながら運営のお手伝いをさせて貰ったのも良い経験になっています。

この時のイベントプロデューサーは「ATTRA INTERNATIONAL」の浅野氏で
、プロの采配を学ばせて頂きました。


そんなレース中の出来事。

3月の寒風吹く西宮沖、30ノットは超えていた記憶がある。

シリーズ何戦めかのインショアコース。

当然、ワントン(40feet)は速く、上マークを回航し、下マークに向かう途中、こちらはまだ上りレグ。

そのワントンがデスロールをしながらのスピンラン。

それを横目で見ていたクルーから「落水!」の声。

そのワントン(FARR 40 のChaCha)からバウマンが落水したのでした。

我が艇はメイン、ジブを降ろし、エンジンを稼働させ救助に向かい、落水者に近づくことが出来ましたが、ライフブイを投げても、強風のため風下に流れ救命ブイは届かず 。

何度かトライする間に落水者を一周した状態になり、なんとその円周内の波がフラットになり、落水者に接近することが偶然に出来、クルーのひとりが両手を差し伸べ、船に引き寄せプレーニングボードから引き上げてくれました。

それで、レースに復帰し、当然「救済の要求」をレース委員会へ。

その間の要した時間、当方は45分の申告。

落水者艇の申請時間は15分?の申告。

審問の結果は当然45分。

表彰式では「日本タイマート(CORUM)」から時計ではなかったですが、感謝状とCORUMマークの入ったネクタイをクルー全員にプレゼントされました。

その後、縁あって落水者のKKちゃんと若手クルーのM.Iクンもレース活動に参加してくれるようになったのです。
その後、「ChaCha」とは不思議な縁が続いて行きます。


当時、速く走らせるためのクルーは7名から8名必要で、クルー登録リストには25名の選手がおり、レース前には人集めが仕事のようになっていました。

   
 
  コルムカップの表彰式にて。
 
 
  1991年のスポンサーのCORUM(日本タイマート)の広告とエントラントステッカー。
 
 

1991年〜、琵琶湖でのHANES CUP。
参加と運営の二刀流。

 
  1991年のHANES CUP風景。Offshore誌から
 
  1992年のHANES CUP風景。Offshore誌から
 
 

1992年のHANES CUP風景。Offshore誌から

 
  HANES CUP風景。総合3位、クラス優勝。
 
  HANES CUP この中の3名は35年の時を経て現在の「TEAM BJP」へと繋がっています。
 
  全日本ミドルボート選手権。       
 

1993年。全日本ミドルボート(TAKA Q CUP)はぜひ参加をしたい。

その相模湾のTAKA Q CUPに遠征、油壺(三崎マリン)にベースを置かせてもらい、レイデイにはシーボニアのクラブハウスの関東のセレブが集うレストランや三崎のマグロなどを楽しませてもらいました。

リザルトは IOR5位。

そのTAKAQ CUPに参加するためにレーティングの見直しを行ったのです。

関東では「リップル」「再見」どちらもTAKAIデザイン。

両艇はハーフトンにしては少し高め、YAMAHAの担当者の考えで、当方は少し低めだったので(バウを沈める)でしたが、せっかく速いボートを購入したのだから不利なハンディを背負うより、許される範囲で速い仕様に変更し、確か22.3位から22.9に上げたと記憶しています。

「他艇よりもバウを出せ!」のセオリーです。

そのTAKAQでは良い走りでトップ争いに加わっていたのですが、マーク回航でスターボードながらも2度のクラッシュでハルに穴があく大きなダメージを受け、タイムロスをさせられ、そのため三崎マリンさんで、穴の空いたガンネル部分を応急処置を2度もお願いすることになってしまったのです。

その上、挽回のチャンスの最終レースはキャンセルになり、結果は5位で終わってしまったのでした。

そして、このレースにはあの兵頭選手がメイントリマーで参戦してくれていました。

 
  TAKAQ CUPのレース風景。offshore誌からの画像。
 
  BIWAKO YACHT FESTIVAL 1994
 
  Sometime cup のスタート風景
 
  数年にわたって、琵琶湖では200艇以上の参加があった「Sometime Cup」が1994年に限りスポンサーがなくなり、この年だけが「BIWAKO YACHT FESTIVAL 1994」として、「NORC」主催で恒例の南湖を半周するコースで開催された。

この時の参加艇は150艇以上で、南湖の横幅いっぱいにスタートラインが設置され、大混雑の中スタートが切られる。
しかもこの年もスピンスタートであった。

このレースは、着順4位ながらも修正1位。

当時のNORC近畿北陸支部のインターナショナルジュリーの秋山氏、レース委員長の三井氏からも熱いメッセージを頂きました。


1995年からは「CABIN 」がスポンサーとなり、数年は続いていた。
 
  ハンディキャップ。
 
ハンディキャップレースは好きでありません。

IOR時代も関東の「リップル」「再見」などと、ほぼ同じレーティングに合わせ、イコールコンディションで競かったのですが、クローズドの走りには徐々に離される始末。

フリーは全くの互角で、スピントリムのほんの少しの乱れで少し前に出れたり、離されたりと言った感じで、烏帽子岩回航のレースの興奮は今でも忘れることは出来ません。

1995年。
時代はIORが終わりを告げ始め、今度はIMSに変わりはじめていました。

 
  YR30からお遊びのYAMAHA FESTA30に。
 


1996年。
KGの若手クルーが就職などで、乗れる機会がなくなったのを機会にYR30を手放し、残ったクルーでも楽しめる「YAMAHA 30 FESTA」を購入。

セイルはNOTHのレーシングカットの白いセイルに、オリジナルのジェネカーにスピンとカーボンポールも贅沢に追加。

オリジナルのマストはカーボンでしたが、程度は良くなくグルーブが別に付けられていたので、バックスステイを引くと、マストとグルーブが外れてしまうような造りでした。

この年、1996年のヤマハのカレンダーにもなったのです。



 
   
  フランス人セイラーとの出会い。
 

琵琶湖のマリーナをベースに、湖遊びや草レースを楽しんでいる頃。

西宮に輸入されたボートの仕上げに来日していた、フランス人の「BRUNO」と親しくなったのです。

ブルーノは、多くのレースボートのクルーや、自らはカタマランでドーバ海峡を横断するレースに参戦していたと聞かされ、驚いたものでした。

そのブルーノが琵琶湖でヨットに乗りたい!とのことで、
我が艇「YAMAHA 30 FESTA」に招待。

彼がヘルムとメイントリムを行い、私はピットと、言われるままにジブ担当。

彼は微笑みながらスタートした。

3回もタックすると他艇を引き離していました。

ここで、目からウロコ状態。

NOTH SAILSやYAMAHA FACTORYの走らせ方とは大きく異なっていたのには驚きでした。

やはり、パフ、ブローの読みが違う(今思えば・・・)。

セイルトリムも違う!

少しの波の方向の違いや、微妙な風の向きなども見逃していなかったようでした


その後、何度か出会う機会があり、タドタドしい英語でテーブルレクチャーを受けさせて貰った。

一番印象に残っている言葉は「セイルトリムはクルマのミッションと同じで、風向、速度によってギアチェンジ(トリム)すること」

YAMAHA FACTORYとも多く同乗したが、マーク回航時、スピードが落ちているにも関わらずいきなり、メイン、ジブを思いっきり引き込んで、
上らせるので、スピードがあがらずリーウェイも大きくなってしまっていたような気がしています 。

YAMAHA FACTORYはヘルムの悪さをクルーのせいにしていたのを思い出します。

「ジブ引け!」です。


この走らせ方は、同じマリーナで知り合った、元日産のファクトリードライバーの歳森康師さんもほぼ同じ意見を持っていました。

彼はモータースポーツ生活を終え、セイリングレースの世界へ。

琵琶湖の同じマリーナだったこともありで、憧れのドライバーでもあった歳森さんに思い切って声を掛けさせて頂いた。

同乗する機会は無かったが、地元でもランチをするほどに仲良くさせて貰い、会話の全てがヨット用語の会話ではなく、モータースポーツ用語に置き換えられていたのですが、互いに理解しあっていたのです。

このFESTA30では、IORとは違ったヨットライフを満喫していました。

 
 
     
  日産ファクトリードライバーの歳森康師選手。
1969年 SRで優勝。1973年 240Zの歳森・星野組
   
 
  KENWOOD に行く?
 

1994年。

YR30時代の琵琶湖の陸上保管場所の隣にX99が並び、互いにレース熱が同じだったこともあり、次第に接近。

今の「Team AOBA」です。


世間話をしている間に「KENWOOD CUP」に話題が沸騰し、じゃチームを合体させ、チャーターボートで見学も兼ねて出場する?

で、ハワイのレース本部とオーナさんとFAXでやりとりし「Lid Guard 35」をチャーターしたのでした。

エントリーチーム名は「AOBAとRESERVEとチャーターボート名のMEDICINEMAN(祈祷師)の頭文字で「ARM(武器)」で参戦した。

Ala Wai Harborに到着して知らされたのは、FAXでやり取りをしていたのは、MICHAEL ROTHWELL氏。

彼はロサンジェルスオリンピックのスタークラスのシルバーメダリストだったのです。

当然のようにセイリングノウハウを聞かせてもらいました。


本人曰く、「It's Faster than MUMM36.



普通、上手くタックしても4艇身分位のロスになります。

マイク(マイケル ロスウェル氏)
は大袈裟かもしれませんが、2艇身分のロスでタックしているとか?

リザルトは何度めかのレースでクラス3位が一回のみ。

KENWOOD CUPのワンレグの長さはロングディスタンスを思わせる距離。
ハイクアウトをしていても退屈するほどの時間でした。

40日間、オアフ島滞在。




 
  「TEAM ARM」Lid GUARD35
 
   
「TEAM ARM」ALA WAI HARBORにて    
 
 
  MUMM36を購入。
 


それから2年後の1996年にIMSのFARR DesignでCookson建造。

あのシャンパンMUMMがサポートした「MUMM36」を購入。

念願のイコールコンディション。
ハンディキャップはありません。

このボートで再び「KENWOOD CUP」に挑戦することに。

前出の「AOBA」も同じ「MUMM36」で参戦。

AOBAには
難波誠さんが乗り、当方はキャプテンに西川松吉選手とYAMAHA FACTORY TEAMが乗り込んだのですが、結果はNO GOOD。

同じクラスでスコットランドチームの「JAMESON」が優勝。

その「JAMESON」若手のリザーブ選手がハーバーのクラブハウスでレース状況を語っていたのを盗み聞き。

英語の堪能な女性が翻訳してくれたが、我がチームの走らせ方は良くなかったとのこと。

全く同じボートなのにスピードが全く違う!

レースを終えると全てのレースでワンレグは離されていた。



 
  レースリザルトは最悪でしたが、レースの合間にTBSの取材を受け、田中律子さんが我がMUMMに乗り「team SERVE:R」のための30分の特番を放送してくれました。
 
  レイデイのWAI KIKI沖
   
 
  '96年KENWOOD CUPの国内放映。
   
 
  ALA WAI MARINEでの上架中。

このALA WAI MARINEで奇跡的な出会い。

モータースポーツ時代の仲間が、そのALA WAI MARINEのオーナーになっていたのです。

その後、ALA WAI MARINEと共同でハワイで「Toprunners Inc.」立ち上げ、モータースポーツのエージェントや、1999年には「ASAHI SUPER CUP」を開催したのです。
 
     
Ala Wai Harbor
Ala Wai Marine
  ASAHI SUPER CUP
運営
   
   
 
  レース活動の終わりと再活動。 
 
日本に戻り、少しMUMM36でレースもしたが、1997年に訳あってレース活動は休止することに・・・

休止後は、琵琶湖でYAMAHA31Sを持つ知人のヨットレースに同乗させて貰ったりしていました
   
琵琶湖のレースシーン。Y31S    
 
   
  2014年。

縁があって再びヨットの世界へ。

今度は「SABRE 34 TARGA」アメリカ産の純セーリングクルーザーをヨットを広島で購入。(4名の共同所有)

広島から西宮までの30時間の回航はノンストップでスマホのNAVIONICSを頼りに音頭の瀬戸を通過。


西宮マリーナの桟橋では、2年間は整備、リメイクに没頭。

時々セイリングにする程度

一番遠くへのクルージングは淡路島の翼港と淡輪YHのレース参加1回のみで、それ以外は一文字防波堤の中をちょろちょろ。

この時からリメイクやエンジン整備の楽しさを覚えてしまったのです。


アドバイサーには「鳴尾の故浜田」さんと「カワイマリン」さん。

エンジンから木工、ハル磨き、船底塗装方法などを習得することが出来ました。
 
  音頭の瀬戸。
 
  西宮マリーナにて。年に3度の上架。
 
  ヨット屋として活動開始。
 


「SABRE 34 TARGA」も諸事情で手放し、またまた、しばし活動休止。


それから仕事上、中古ヨットの販売業務に徹することになったのです。

それまでの仕事は、広告関係いわゆるG-DesignerとDirectionとProduce業。

モータースポーツ、クルマのアフターマーケット、マリン関連の仕事もちょくちょく手がけさせもらっていました。

そしてヨットレースイベントもお手伝い。

ハワイでは「ASAHI SUPER CUP」琵琶湖の「Yachting Trophy」を主催。その後に「HANES CUP」に発展。

大阪湾では「CORUM CUP」なども運営に参加しました。

当時、立風書房から「YACHTING誌」が創刊され、その片隅で参加もさせてもらっていました。

これらの雑誌以外にKAZI誌から「HELM」NORCから「OFF SHORE」が発刊されていましたが、今は「KAZI誌」のみになってしまっています。

1996年には関西のヨット業者が集まり「KPAS」を立ち上げ、日本初のフローティングショーを開催。

また、「OSPC」の名称でプラクティスレースを主催。
数年間の継続しました。

当時、「BOAT JP」の名で、インターネットでマリン情報を発信していたホームページに「中古ヨットの販売、掲載依頼があり、掲載すると1週間もたたない内に売却が決まり、インターネットのパワーを感じ、そこから徐々に扱いヨットが増え、現在のBJPに至っています。

   
 
 
1994年〜
HARKEN JAPANの広告制作
  1994年〜
HARKEN JAPANの広告制作
 
 
YACHTING誌   YACHTING誌
   
 
   
1996年
国内初のフローティングショー開催・事務局担当
   
 
  OFFSHORE誌には「TEAM BJP」 の前身「TEAM SERVE」のリザルトやレース運営に関わ記事が多数掲載されています。
 
 
     
 
     
   
     
 



 
  納艇デリバリー。
 

2009年 
DUFOUR38
大阪北港ヨットハーバーから東京夢の島マリーナまで、でノンストップで3日間。下田、神子元島の間は夜間で行き交う本船の多さに緊張の連続。海図の出ないGPSでもやはり便利でした。

紀伊半島下田を回ると太平洋の星空が印象的で美しい。
松浦さんと友人と新オーナー。

夢の島マリーナ

2009年 
PRTERSON30
新西宮YHから岡山レジーアマリーナへ。
10時間ほどの納艇クルージング。
足立ヨットさんと。

 
新西宮YH   レジーアマリーナ


2009年
NEWPORT33

北港マリーナから茨城那珂湊マリーナまで。
御前崎入港は5m以上の大波。
荒天で御前崎で4日停泊。

那珂湊マリーナへのアプローチは大波でスターンを持ち上げられながらのサーフィングで突入。
度胸あるのみ、アプローチは石垣さんヘルム。

 
御前崎マリーナ   北港ヨットハーバー

2010年
ARPEGE 30
西宮から駿河湾の折戸マリーナ(現富士羽衣マリーナ)
ノンストップで2日半。
友ヶ島からの潮に載せ、予定より早く到着。

この時はYAHOO地図での航行。

着岸は真夜中、船中泊をしていた方が舫をとってくれました。
貯木場跡のクイが多い中「暗いのによく入って来れたね〜」でした。
イシガキマリンの石垣さんと。

 
鳴尾マリーナにて出航準備   富士羽衣マリーナ

 


2010年
HIGRACE
西宮から高知横浜港へ
一泊2日。
向かい風と波が荒く、サントピアマリーナに避難。
室戸岬から高知までは真っ暗闇な上、波大きく高し。
着岸時は夜明け。
ヨットギルドの森田さんと。

 
サントピアマリーナ   高知港

2011年
PACIFIC42

沖縄宜野湾マリーナから福岡マリノアまで。
奄美大島で1泊のみ。

奄美名瀬港で給油を終え、出航しようとエンジンを掛けるがセルモーターが作動せず。
偶然見かけた電気屋さんに修理依頼。8時間で回復してもらった。

沖縄諸島の島々を満喫。屋久島が大きく感じ、1週間はあっと言う間。

玄界灘の波をさけて、豊後水道から関門海峡を抜けマリノアへ。

関門海峡を抜け玄界灘には波が残り、横倒しになりながらのオーバーナイト。
GPSと岸を見ながらの真っ暗闇の不安さで、 さすがワッチオフの佐野さんにデッキに上がってもらいました。

ヨットドクターの佐野さんと。

   
奄美大島名瀬港・屋久島を通過    
   
宮崎細島港    


2013年
HUNTER32

福岡から新西宮YHまで2日半。
エンジン不調でスピードが上がらず。
しかしセーリングで10ノットで激走。
TRAMの蒲谷さんと。

 
宮窪を目指して。  

2013年
OKAZAKI BRIANT 32
横須賀から西宮マリーナへ。
浦賀水道を抜け、串本までは平穏なデリバリー。しかし串本からの北上は大荒れで、凄い波と風。
一気に2ポイントリーフに。
それでも航行は無理の判断で田辺に避難。
新オーナーさんと友人との3人。

 
田辺シータイガー   串本から北上中

 


2014年
YAMAHA 34 KETCH
別府から相生野瀬BPまで
別府を出てから、来島海峡に入った途端にエンジンストップ。
風速1 〜2ノットでメインとジブをアップ。

なんとかセイリングで来島を抜けきり、今治に緊急入港。
そこから相生まではオーナーさんと友人だけで野瀬BPまで。

 
別府を出航   今治に入港


2017年
YAMAHA31EX2
西宮から岡山日比へ。
家島の「志みず」で食事と1泊。
スタッフのUクンと、オーナーと。

 
家島諸島   瀬戸内の島々を流れる潮。
 
家島志みずの桟橋   瀬戸内の島々

2019年
MOODY 40

福岡マリノアから茨城大洗マリーナまで。
多度津と御前崎の2泊のみ。

房総半島を回ってからは、向かい風と波。

岡山の瀧本さんと。

 
大洗マリーナ着岸。   房総半島回航中。


2022年
BENETEAU OCEANIS 28

新西宮YHから津YHまで。
強風のため和歌山マリーナシティで一泊。

串本入港時に大量のイルカと並走。
串本で一泊。串本から一気に津YHを目指すが、向かい風と波が大きく、
伊勢志摩マリーナに緊急入港。

伊勢志摩から津までは、ビギナーのオーナーさんが回航。

岡山の岡本さんと。

 
串本港。   伊勢志摩マリーナ。

2022年
BALI 42
(新艇)
新西宮YHから福岡マリノアへ。
ウインクレルの的野さんと、スタッフのUクンと。
上島弓削で1泊。
瀬戸内の島々は美しい。
カタマランは快適。

 
上島弓削   上島弓削海の駅


2022年
BENETEAU 40.1

福岡マリノアからラグナマリーナまで。
勝浦で補給のみ。
フリーダムの岸本さんと。

 
紀伊勝浦港   伊良湖岬

などなどが主なデリバリー。

デリバリーはレースと違ってクルージング的な楽しみ方を経験させて貰いました。

 
   
  荒天の恐怖。
 

荒天の海の恐怖も数度経験。

一番の恐怖はNEWPORT33での御前崎突入。

日没前に駿河湾からの波が大きく、波高は5m以上。

すでに真っ暗。

ヨットが右舷、左舷と何度も横倒しになりながら、機帆走での入港トライ。

なんとか御前崎漁港まで辿り着くことが出来き、岸壁に着岸したのはよかったが、風と波が強くガンネルを打ち付けられ、破損。

少し波がおさまった時を見計らい、真っ暗闇の中、御前崎マリーナに移動した。

桟橋にもやった瞬間に、何かを食べて熟睡。

早朝、人だかりの声で目覚めた。

そこには、地元セイラーと「A」さん家族が尋ねて来てくれていた。

ここでも「よくオンザロックせずに入れたね〜」でした。

あとで調べると入港の進路はすごく狭かった。


Aさん家族は横浜を出航し沖縄などへのクルージング計画で荒天のために避難中でした。

その後Aさんが高知沖で落水と聞かされるが、10時間後には白浜沖で救助されたとのニュースが飛び込んできた。

さらにその数年後、宜野湾マリーナでAさん家族と偶然にも再会。


 
  Aさんファミリーと宜野湾マリーナで再会。
 
   
  趣味になったヨットリメイク。     
 

またまたヨットライフが3度めの再スタート。

2022年の3月
シーズマリンさんに千葉から陸送で淡輪に運んでもらい、そこから整備に没頭することになった。

   
千葉・鴨川を出発。    



 
  整備とリメイク。     
  ここからが40年モノの古いヨットのリメイクがスタートするのです。

新しいエピソードと「Team BJP」の始まりです。

 
 

2022年
淡輪ヨットハーバーに運び込まれたCRSは経年劣化と雨漏り痕、サビなどでコンディションが良くなく、デッキ、キャビン共にリメイクすることに。

キールのサビ補修。
ハルのバフ掛け、船底塗装。

エンジンもサビサビ。

メインセイル、イージーパックの新調、ロープ、シート類の全交換とシートストッパーの交換。

ライフラインの交換とオープンゲートの新設。

航海灯をLEDに。

ポンツーンライフ仕様にするため、陸電とキャビン内にAC電源設備。ポット、レンジとマリンクーラーを設置。

そこから、時間があれば、クーラーを快適に動かすためのRENOGY製「リン酸鉄リチウムバッテリー100A」とCOTEC製のAC-
DC用のチャージャーとRENOGYの走行充電機。。

外観では、ドジャー、ビミニトップとドジャーとビミニの間のオーニングをオーダー。

SELDENシステムバングの取付。

床板のイタミは修正することができず、自ら再製作。

ハッチアクリルも自作全て交換。

キャビン内の雨漏り痕が激しく、ニス補修が無理と諦め、今風の壁紙を貼付し。

さらに、腐食が激しかったハッチバックルも可能な限り交換。

キズだらけのガンネルもラップシートで化粧直し。

ハルラインの昭和なデザインも令和ではなく平成時代風にアレンジ。

これで外観とキャビン内部は、まぁまぁに仕上がって来た。



 
 
淡輪YHに搬入。   ギャレーまわりのリメイク。
 
 
床板の製作。   ドッグハウス、ハルライン変更、ガンネルのリメイク。
 
  ラットステアリング     
   
  2022年3月。

一年めの上架作業。

どうしても改造したかったティラーからラットステアリングにPROCO製のラットステアリングをオーダー。
後にジェネカーポールもPROCOに特注。

 
PROCO製ラット   PROCO製ジェネかーポール
 
   
  TEAM BJPの初戦。
  2023年。

淡輪ヨットハーバーでは「関空レース」と夏に開催される「フェスティバルヨットレース」があり、そのレースに参加してみたくなってしまった。

そこで、YR30とMUMM36で一緒に戦ってくれたKGのOBに連絡すると、S選手とA選手2名と、もう1人長いお付き合いのI選手が集まってくれたのです。

2023年のフェスティバル参加の時は、船底状態は塗料でコテコテ。
デッキ上はドジャーとビミニトップ付き。
さすがレースの時はドジャーを外しましたが。

キャビン内にはマリンクーラーと大型の冷蔵庫、TV、ポット、レンジと。いわばフル装備。

メインセイル、ジブセイル、クルージングジェネカーもジェネカーポールなしでの参加もあって結果はNo Good.
 
 
フェスティバルレース   フェスティバルレース
   
 
  TEAM BJPの初勝利
 

2024年。

ゴールデンウィークに開催された「関空一周レース」の「Vクラス」に挑戦、この時は、大型冷蔵庫、レンジの重量物と降ろし、50cmのジェネカーポールも設置、ある程度のカンタンなレース仕様で臨んだ結果、超微風の中、僅差で「Vクラス」優勝を手に入れる事が出来たのです。

同年、夏の「フェスティバル」ではBクラスでの参加。
150%ゼノアを新調。
このレースには同じKGのOBのH選手も加わり5名での参加するも、スタートからジェネカーランでのコースが悪かったのか、着順3位の修正5位とあまり嬉しくない結果であった。

 
 
関空レース。VクラスでV。   フェスティバルBクラスでの参加。
 
  TEAM BJP 2連覇。
 

2025年5月。

再び「関空一周ヨットレース」の「Vクラス」にエントリー。

今回は、レース前にボトムとキール、ラダーの塗料を剥がし、マストチューニングを見直し、レースに参加。

事前に、風と潮の流れや、スタート位置などのミーティングを行い、スタートを切った。

スタート時は10ノット程度の風の中、ミーティングどおりのコースでジェネカーランで関空橋を目指す。

我々は一番の風下ながらジャイブもせずに関空橋を潜る事が出来たが、第一マークのフィニッシュまでは2〜3ノットに風が落ち、我慢のセーリング。

ジェネカーからゼノアにチェンジ、タックを数度繰り返しながら、ブッチギリのフィニッシュとなった。


 
 
磨いたキール   インナーフォアステイの改造
 
メインシートとブロック   ジェネカーラン
 
  「B」と「D」
 
   
 

「B」はSAILING TEAM BJPのロゴで「D」はIOR、IMSと共に戦ってくれた4名は現在、2チームに別れ「DRAGON CLASS」に参戦中。

実際に走らせているのは彼らの「D」パワーで「POWERD by TEAM DRAGON」となっています。

そこで、チームウェアを作りたくなり「フェスティバルレース」に向けて「GILL」のポロをTEAM名入りと「TEAM BJP」のステッカーもオーダー

 
 
No.50   No.46
   
  最後のヨットにYAMAHA 30CRSを選んだワケ。
  1986年当時、YAMAHAの広告を手がけていた代理店のオーナーの所有艇が「YAMAHA 30CRS」で、瀬戸内クルージングの同行や、船底塗装や日常メンテナンスを任され、かなり自由に自艇のように使わせてもらっていました。

そのオーナさんもレースに興味ありで、淡輪YH主催の「21世紀カップ」などにも参加させて貰っていました。

懐かしいヨットなのもありで「YAMAHA 30CRS」に。
   
 
 
瀬戸内鴻島   1986年頃?(スターンがオーナー)
 
   

1987年頃? 淡輪21世紀カップ

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
 

TEAM B J P